世間には、様々な問題があふれている。技術的な問題は、世界中の賢い人たちが日々それらの解決策を考え、話し合い、実行している。それでもうまくいかないこともあり、さらに改善を試みようと日々努力している。
世間には、様々な問題があふれている。社会的な問題は、世界中の人たちが日々自分たちの意見を訴え、コンセンサスによって倫理が発展していく。将来的にその倫理が間違っていると考えが改められることもあるが、時代が違うならば批判されるべきではない。
世間のほぼ100%の人たちが賛同する意見には、そこに疑問は生まれず、それが常識として浸透していく。しかし、一定数の反論があるような議題に対しては、最後まで考えを変えない人たちが出てくることがあり、平行線のまま解決しないこともある。
話し合うのはよいことだ。話し合った結果、自分の頭になかった考えを聞くことができ自分の意見をブラッシュアップできるからだ。また、それぞれ意見を出すことで、結果的に両者が始め考えていなかった結論にたどり着くこともある。建設的な議論というのは、そういった意味でどんどんするべきだと思う。
だが、してはいけない議論もある。建設的ではなく、相手を一方的に言い負かす(論破する)ような議論である。そんなことをしても、相手の反感を買うだけであるし、上記のような議論の結果から生まれる新しい価値観を生むことができない。
さて、これらを踏まえて、自分がいま抱えている問題は、自分の意見を持つことができないということだ。自分の意見を出すことができなければ、建設的な議論すら始まらない。自分は、議論の土俵にも立つことができないのだ。
先日、「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由という記事を読んだ。強烈だった。自分自身、映画やアニメ(ドラマは見ない)、YouTubeを倍速で見ることが多く、それを行う自分の深層心理をズバリ言い当てられた気分だったからだ。その記事の中には、自分に当てはまらないこともあったが、特に自分に言い当てられたと感じた部分は、「自己紹介欄に書く要素が欲しい」である。ネットワーク社会となった現代において、一芸に秀でた人間はスポットライトが当たりやすい。ましてや、YouTubeでそれを発信している人を見ると、それに比べて自分は何も持っていないと感じてしまう。その情けなさを解消しようとして、どんどんいろいろ吸収したいというのが、今の自分だと思う。実際、ピアノを練習しだしたのも、このブログを書き始めたのも、自分が何者なのかを探すための一環である。
さて、本当はこれに関してもっと書きたいのだが、それ以上に今回書きたいことは、上の記事のように、自分の気持ちを文章としてまとめる能力がないことだ。こうやってブログにつけてはいるが、後から読み直したらいったい何を書いているのかわからないかもしれない。
世の中には様々な問題がある。技術的な問題は、自分には知識がないのであまり言及することはできないが、社会的な問題は、何かしら自分とかかわりのある内容なのだから、意見を表明することもできるはずだ。だが、自分はこれらの問題について意見を表明することがなかなかできないでいる。いろんな人の意見を聞いていると、何が自分にとって正解で何が自分とは相容れないのかがわからなくなってくるのだ。また、結論として問題に対する是非は表明できるのだけれど、その理由をしっかり説明することができないことも多々ある。頭の中をうまく言語化できず、紙に残すことも、口にすることもできないでいる。
その結果、「自分の意見」を表明できず、もやもやとした感情だけが頭の中に残ってしまう。この気持ち悪さから脱却するには、どうすればよいのだろう。。。
とりあえず、意見がまとまらないという悩みを文章に起こすことはできたと思う。今度は、これを解決するための書籍や方法について調べていきたい。